技術の技術的構成と技術発展
Technological Constitution of Technology and Technological Development

佐野 正博

Masahiro SANO


目次






はじめに ---- 技術の発展を評価する視点の多様性

 原始時代の石器技術、古代における青銅器・鉄器技術や農業技術、ヨーロッパ中世で普及した動力水車技術や動力風車技術、そして近代における時計技術や高炉製鉄技術、産業革命期における繊維機械技術や蒸気動力技術、現代の電気技術や自動車技術やコンピュータ技術といったいくつかの典型的事例を思い浮かべるだけでも、多くの人は技術が歴史においてたゆまぬ発展を遂げてきたことをイメージするであろう。
 しかしながら、こうした技術発展はどのような意味で発展なのであろうか。「ある技術が別な技術より発展した技術であるとはどういうことを意味しているのか?」「技術発展とはそもそも何なのであろうか?」・・・こうした問いに対しては図1に示したように多種多様な視点からの答えが存在する。
 工学者であれば「どの程度の技術的性能を達成できたのか?」という視点から技術発展を論じるであろう。例えば動力機関であれば、「最高単位出力はどの程度なのか?熱効率はどれくらいなのか?」といったような視点から技術発展を論じるであろう。
 社会科学者であれば、「社会生活のあり方をどのように変えたのか?」「どのような経済的発展をもたらしたのか?」というような社会的視点から技術発展を論じるであろう。あるいはまた、「人間の労働のあり方をどのように変えたのか?」「労働の人間化にどれだけ役に立つ技術なのか?」といった人間的視点から技術発展を論じるであろう。それゆえこうした社会科学者的視点からは、古代技術者ヘロンのエオリピルなどの様々な発明は、技術的に極めて巧みなものであったが、経済的発展をもたらすようなものではなかったし社会生活を変えるようなものでもなかったがゆえに、技術発展としては評価されないことになろう。
 環境論者であれば、「自然環境にどのような影響を及ぼしてきたのか?」「環境に与える負荷はどの程度のものであったのか?」という視点から技術発展を論じるであろう。すなわち、「環境負荷の少ない技術なのかどうか?」「環境問題を引き起こすことのない技術なのかどうか?」「環境問題の解決に役立つ技術なのかどうか?」という視点から技術発展が論じられることになり、交通手段の技術的発展としては自動車技術よりも鉄道技術の方に高い評価が与えられることになるであろう。
 これら複数の視点が相対的に独立しており技術発展をめぐる評価が相互に対立する場合もあることは、「ディーゼル・エンジン技術は普通のガソリン・エンジン技術などそれ以前の先行する内燃機関技術よりも発展した技術と言えるのか?」という問いを例にとることではっきりと理解できよう。
 この問いに対して工学者ならば、「以前のものと比べて熱効率が高く高出力であるという意味で、より発展した技術である」と答えるであろう。社会科学者であれば、「ディーゼル・エンジン技術は燃費が良く出力も大きいのでトラックや船や機関車など大型の輸送機械用エンジンとして優れており、人や貨物の大量輸送に寄与する技術であるという意味で、より発展した技術である」と答えるであろう。環境論者であれば、「ディーゼル・エンジン技術では熱効率を上げるために燃料を高温で燃焼させるので大量の窒素酸化物が排出されることになる。それゆえ環境負荷の極めて大きい技術であり、以前のものより発展した技術とは言えない」と答えるであろう。
 もちろん以上のような記述は意図的に単純化した図式的解答であり、実際にはもっと複雑で多様な解答がなされている。しかしながら、ある技術が以前のものより発展した技術であるかどうかを考察する時に、このように多面的な評価が可能であることは確かである。そしてまた、技術の発展という問題は多様な視点から総合的に評価すべき問題であるということも確かである。
 ただし、こうした多様な評価視点は内容的には二種類に分けることができる。すなわち、技術という事柄それ自体に関する工学者の技術内的な基準に基づく評価と、技術という事柄の持つ社会的意味や環境論的意味に基づく社会科学者や環境論者の外的で価値的な評価の二種類である。これらの評価は互いに関連しているが、どちらかに還元できるものではなく互いに独立している。
 もちろん現在では環境アセスメント等において、ある技術の環境への負荷がどの程度であるかということもある程度は技術の持つ性能の一部として「客観」的に評価されている。また環境保護技術や公害防止技術に関しては、環境保護や公害防止という観点からどの程度の技術性能を持っているかについての技術競争がなされている。このように環境保護に関わる技術性能評価という工学者的な評価視点も現在では成立している。
 しかしその場合でも、そうした工学者的評価視点とは相対的に独立に環境論者的視点からの技術評価が可能であるしまた必要とされているのである。すなわち、環境論的視点からの評価を満足させるには、工学的にどの程度の技術的性能が必要とされるかが問題とされる。技術的性能の度合いは環境保護にとってそもそもどのような意味を持っているのかを、工学的にではなく環境論的に評価する必要があるのである。
 さて本稿では技術発展に関する評価視点の上記のような多様性や構造を前提とした上で、技術発展に関わるもう一つの評価視点としての技術論的視点を取り上げることにしたい。技術発展の総合的評価のためには技術論者の立場からの考察も必要不可欠であることを本稿で論じることにしたい。

1 技術論的視点から見た自動生産過程問題

 技術論的視点は、工学的視点と同じく技術発展を技術それ自体に関する内的な基準で理解しようとするものである。もちろん技術論的視点からの把握といっても多様である。ここでは主として、人間による有用物の物質的生産過程において利用される技術が物質的プロセスとしてはどのような構造をしているのか、どのような構成を取っているのかという技術構成的視点から議論していくことにしたい。すなわち、社会的諸関係を捨象して人間労働を図2のような物質的過程として抽象的に把握した上で、「技術とはどのようなものなのか?、技術発展とは何か?」という問いを考察していくことにする。もちろん「はじめに」の議論に示唆されているように、こうした人間労働把握はそれ自体が一面的であり限界を持つものであるし、そうした労働把握に基づく技術発展の理解も抽象的で一面的であることは言うまでもない。しかしそうした理解も、技術発展の理解にとって必要不可欠な抽象的一面であると筆者は考えている。
 人間にとっての有用物が形成される過程を物理学的プロセスや化学的プロセスなどといった物質的過程の次元で理解するならば、さまざまな物質が関与する複雑な物質的過程として捉えられることになる。図式的に単純化して言えば、

M1+M2+・・・+Mn → M'1+M'2+・・・+M'n'

というようなプロセスとして理解することができよう。
 この式の左辺の構成要素Mの中に人間や人工物が存在するかどうか、あるいはさらにまた、この式に描かれたプロセスが進行する物質的環境が人間によるコントロールを受けているかどうかで、人為的プロセスと自然的プロセスとが区別される。
 そしてさらにまた、有用物の生産を目的とした人間の意識的働きかけが人間労働であるから、式の右辺に有用物が構成要素として含まれているかどうかで人間労働が関与したプロセスかどうかが区別される。言い換えれば、有用物が生成してくるプロセスへの目的意識的働きかけとして人間労働は位置づけられる。すなわち、有用物生成のプロセスは図2で物質的過程P1として表現される。
 なお、そのように考えるということは、有用物生成のプロセスを構成する要素として人間が登場する場合もあれば、そうでない場合もある、ということを意味している。有用物の直接的な産出過程としての物質的過程P1に人間が登場するかどうかは、物質的過程として把握した人間労働の抽象的規定にとって本質的なことではない。
 このことが重要なのは、技術発展の結果として現代ではコンピュータの自動制御による「無人」化生産が進みつつあるからである。そして、そうした自動制御装置技術の発展による「無人」化の進行に対して、物質的生産過程全体における人間労働の衰退や消滅を見る論者がブレイヴァマンをはじめとして数多くいるからである。
 しかしながら原始時代における人間の採取労働がそうであったように、有用物の形成過程に人間が直接的には関与していない場合があることは人間労働の歴史の最初から見られた。人間が関与していない非人為的な自然的過程においても有用物は形成される。例えば、食用可能な植物、自然金、自然銅、隕石中の鉄などは人間の目的意識的な働きかけ抜きに、すなわち、人間がまったく関与することなしに自然に形成されていたのである。
 しかも同じようなことは、採取労働の場合だけでなく、農業における食物生産の場合などのように人間の目的意識的働きかけを含む人為的過程にも見ることができるのである。というのも農業における食物生産の場合には、人間の主要な労働は、食物の育成過程を支える環境的条件の整備に向けられたものだからである。実際、食物生産における主要な人間労働を構成しているのは、揚水や用水路などによる土壌への水分補給、雑草取り、養分補給、耕耘などの土壌整備である。こうした人間労働は、食物が育つ過程それ自身への人間の直接的関与を意味するものではなく、食物が生育する過程の環境条件の目的意識的形成を意味するに過ぎない。植物工場やビニールハウス生産などの場合にも、植物の成長過程そのものに直接的に人間が一つの構成要素として入り込んでいるわけではなく、温度や日照時間など主として植物の育成過程に関わる主要な環境条件を意識的にコントロールしているに過ぎない。
 このことは、日本酒やワインなどの酒の生産においても同様である。酵母によって糖類を発酵させてエチルアルコールに変えることによって酒を製造するというプロセスそれ自体は自然的プロセスとして進行する。確かに酒製造のための原料や道具・装置などの準備作業、糖類の発酵過程における温度制御などは人間が関与しているが、物質的過程としての発酵過程それ自体は人間の関与抜きに自動的に進行するプロセスである。
 さらにまた、高炉において鉄鉱石中の酸化鉄とコークス中の炭素が反応して鋳鉄が形成されるプロセスそれ自体や、転炉において鋳鉄中の炭素が酸素と反応して鉄の外に取り出されることで鋳鉄中の炭素濃度を低下させて錬鉄や鋼鉄を生成するプロセスそれ自体も人間の関与抜きに自動的に進行するプロセスである。
 以上のような有用物の「自動」的生成過程において人工物=労働手段が重要な役割を果たしているということはもちろん確かである。食物生産における土壌、酒の生産における発酵槽、鉄の生産における高炉や転炉などの人工物=労働手段がなければ有用物はうまく形成されない。しかし食物や酒や鉄などの有用物の形成における人間の関与のあり方は、物体加工作業などの場合とはまったく異なっている。加工作業においては人間が道具や機械を操って目的意識的に加工をおこなうという形で有用物の生産に直接的に関与しているのに対して、食物や酒や鉄の生産の場合には人間が労働手段でもって有用物の形成プロセスそれ自体に直接的に入り込んでいるわけではない。人間の目的意識的働きかけは有用物の生成プロセスに対してあくまでも間接的に留まっている。
 自動組立技術の発展やNC旋盤やCNC旋盤などの自動加工機の登場とともに始まった生産の現代的自動化の場合も、基本的には上記のような有用物の「自動」的生成過程と同じような構造を持つものとして理解することができる。生産の現代的自動化においても、食物や酒や鉄などの有用物の「自動」的生産の場合と同じように、有用物の生成過程に直接的に入り込む人間労働が存在しないのであるが、有用物の生成過程それ自体の生産・維持管理・再生産に関わる労働が必要不可欠なのである。しかもそうした労働は生産の自動化以前よりも質的にも量的にも増大しているのである。
 実際、生産の自動化に要するコストは極めて大きい。有用物のそうした「自動」的形成過程の生産・維持管理・再生産に関わる労働や生産設備のコストが非「自動」的生産過程の場合に比べて大きいために、現代企業では少品種大量生産の場合にしか自動化は追求されない。
 もちろん大量生産のための技術として自動化生産はかなり有効である。例えば、大阪の八尾市にあるシャープのエアコン工場は自動化を徹底的に追及して自動化率が85%にまでなっている。定型化しづらい工程だけを人間労働に頼る生産システムなのでわずか42人で年間90万台を組み立てるという生産性の高さをあげている。これに対して、エアコン製造業界全体の推定平均自動化率は二〇%台である。しかしそのことは業界全体としての技術発展の遅れを単純に意味しているのではない。シャープの自動化率の高さはシャープが業務用エアコンを扱わないためエアコンのモデル数が約70種類と限定されていることにもよるのである。シャープと異なり、業務用エアコンも生産している松下や東芝などでは約200−300種類ものモデル数があり自動化率を上げることがコスト的に必ずしも有利ではないのである。すなわち多品種少量生産の場合には生産のフレキシビリティが確保されていなければならないので、ライン生産化して自動化率を上げるよりもセル式生産システムを採用する方がコスト的に有利だという側面があるからである。この点に関しては、東芝やNECにおけるワープロ専用機の生産や、オリンパス光学工業における顕微鏡の生産においても同様の事情から、ベルト・コンベヤー・システムによるライン生産システムではなく、同一のテーブル上で一人または少人数で製品を製造するセル式生産システムが採用されている。
 このように、多品種少量生産の場合には自動化を追求するメリットは少ない。なおマクロ的に見れば、生産設備の製造に関わるコストも究極的には人間労働の社会的総コストであるから、こうしたことは生産の自動化の追求によって社会全体において必要とされる人間労働の量が減少するとは限らないということを意味している。
 また、モノ作りの技術水準の維持・向上といった面からも全工場を100%自動化するわけにはいかない。自動生産の技術を発展させるためにも、人間が生産工程に直接的に関与した非自動的な生産を残しておくことが現在のところは必要不可欠なのである。
 さらにまた自動化の追求を可能とするためにその背後で、異なるモデル間での部品の標準化や共通化を押し進めること、出荷時点からすべての部品をバーコード管理すること、自動搬送の際にライン上の置き台に無線制御のIDプレートを組み込んでパーツが自動的に指定の場所に正確に置かれるようにすることなど、多様な「環境」的条件の整備が必要なのである。これは食物や酒や鉄の「自動」的生産の場合とまったく同じである。
 このように生産の現代的自動化に関しても、過去における「自動」的生産の事例と同じように、生産に関わる人間労働が衰退・消滅したものとしてではなく、人間労働の形態が変化したものとして理解すべきなのである。現代的自動化という技術発展によって、ある特定領域の労働が「消滅」することは確かであるが、そうした労働「消滅」とともに自動的生産プロセスそれ自体の生産や維持管理などいった新たな労働が登場・増加するだけなのである。

2 自然的過程における有用物の生成過程と人工的過程における有用物の生産過程

 さて話を元に戻して次に、「非人工的な物質的過程(狭義の自然的過程)における有用物の生成過程と、人工的な物質的過程における有用物の生産過程(人間労働による有用物の形成過程)とは、物質的過程としてはどこまで共通しており、どこから違うのか?」という問題を考察することにしよう。
 前節において論じた、採取労働の対象となる有用物の自然的生成過程、食物生産などにおける有用物の「自動」的生成過程、電気技術やコンピュータ技術の発展にともなう有用物の現代的自動生産過程という三つの事柄の考察にも示されていたように、<自然的過程における有用物の生成過程>と<人工的過程における有用物の生産過程>とを物質的過程のレベルで自然科学的に区別することは困難である。
 物質的過程としては人間も道具も機械も同じ物質として取り扱われる。それゆえ自然的過程と人工的過程のどちらも物質的過程としては、M1+M2+・・・+Mn → M'1+M'2+・・・+M'n' という同一の式で表現されるプロセスである。MあるいはM'という構成要素の中に人間や道具や機械が含まれるか否かに違いがあるだけであり、上記の式で示されているような抽象的次元で物質的プロセスを捉える限りでは自然的過程も人工的過程も区別できない。どちらの過程においても同じ自然科学的法則が妥当している。法律や交通規則は国や地域によって異なるが、物質的プロセスを支配している自然科学的法則は国や地域によって異なることもないし、自然的過程と人工的過程とで異なることもない。人間労働の主要な特徴の一つである人間の目的意識は、物質的過程に関する自然科学的把握の中には占めるべき位置がない。
 過去においてこうした問題は、道具や機械の経済学的規定と自然科学的規定の問題という形で暗に論じられてきた。例えば戦前においてマタレは、「吾々の道具と機械は自然科学的の経験と法則とに基づいて構成されたものであるから、自然科学的区分点を求めることは、初めから尤もなことである」としながらも、「単なる自然科学的考察方法」は道具と機械の区別にまったく役に立たないのであり、道具と機械の区別は経済学によって初めて可能となると主張している。(1)そして戦後になって岡邦雄はマタレのこうした主張に賛成して、「これは極めて適切な指摘である。即ち「道具」と「機械」の区別は、全く経済学の要求するものであり、経済学的にしか成し得ないものである。」(2)と述べている。
 確かにマタレや岡邦雄らが主張するように、自然科学的には道具と機械はその複雑さの度合いでしか相対的に区別ができず、「道具は単純な機械で、機械は複雑な道具である」とでも言うしかない。自然科学的に道具と機械の本質的区別をなすことはできない。同じく、自然的過程と人工的過程の本質的区別も自然科学的にはできない。どちらも広義の意味では自然的過程であることには変わりない。しかしだからといって、自然的過程と人工的過程の区別がそうであるように、道具と機械の区別も経済学的に規定するしかないということになるわけではない。
 こうした区別の問題を解くためには、有用物の物質的生産過程の構成がどのようなものなのかという技術構成的視点から技術論的に論じる必要がある。ここでは議論の単純化のために、小麦をすりつぶして小麦粉という有用物を作り出す製粉作業過程の歴史的発展を例として考察を進めていくことにしよう。

3 製粉作業の技術的構成の歴史的変化

<参照>「製粉技術の歴史的系統樹

 製粉作業の歴史的起源は、大きな石の上に小麦の粒をのせ人間の手につかまれた適当な大きさの石で叩きつぶして擦りつぶすというプロセスにあった。それから次に、臼の中に入れた小麦の粒を手で持った杵で搗き砕いて擦りつぶすというプロセスへと技術発展を遂げることで、より効率的により多くの小麦を製粉できるようになった。それからさらに進んで、搗き砕いて擦りつぶすという作業の代わりに、図3のように作業台となる平らな大きな石の上に小麦の粒を置き、手に持った石に自分の体重をかけながら前後に往復運動させて擦りつぶすというサドル・ストーン(鞍型臼)による製粉作業へと発展した。小麦の粒を「石で叩きつぶす」とか「杵で搗き砕く」という作業プロセスよりも、「重量をかけて擦りつぶす」という作業プロセスの方が製粉という目的には技術的により適したものであった。
 サドル・ストーンという道具を用いての製粉作業プロセスの技術的構成は、図式的に単純化していえば下記のようになっている。

[プロセス1] (前後運動する)人間の手+サドル・ストーン+小麦
                           → 人間の手+サドル・ストーン+小麦粉

 サドル・ストーンからの最初の技術的発展は、図4のように大きさの異なる平らな板状の石を二枚一組で上下に組み合わせたものであった。これは、上石に付けられた棒を手でもって垂直軸まわりに前後に動かすことで小麦の粒をすりつぶす装置であった。上石と下石のそれぞれの接合面には細い溝が掘られ、小麦の粒がうまくすりつぶせるように工夫されていた。そしてまた上石は、上から見ると中がじょうご形に窪んだ形にされ、真中に細長い溝状の孔が開けられており、そこから小麦を入れることで二枚の石の接合面に小麦の粒が供給されるようになっていた。上石の重量のために人間はプロセス1の場合のように製粉作業の際に小麦の粒に対して荷重をかける必要はほとんどなくなったし、プロセス1の場合よりも石と石の接触面積が増えたので一度により多くの量の製粉がおこなえるようになった。この製粉作業プロセスは下記のような構成になっている。

[プロセス2] (前後運動する)人間の手+手押し挽き石臼+小麦
                           → 人間の手+手押し挽き石臼+小麦粉

 その次の技術発展は、長方形の板状の二枚一組の石の代わりに、図5のように円盤状の二枚一組の石からなる回転石臼が利用されるようになったことによってなされた。これによって前後運動ではなく回転運動によって製粉作業がおこなわれるようになった。回転石臼はまず第一段階として人間の手で回された。そのプロセスは下記のような構成になっている。

[プロセス3] (回転運動する)人間の手+回転石臼+小麦
                           → 人間の手+回転石臼+小麦粉

 この場合には、小麦をすりつぶして小麦粉にするという作業プロセスを直接的に担っているのが回転石臼であり、その回転石臼に回転運動エネルギーを与えているのが人間の手である。いわばこの場合には人間が、小麦を小麦粉へと形態変化させる動力(運動エネルギー)を生み出す「動力機」の役割を果たしている。
 回転運動によって「擦りつぶし」作業をおこなう道具である回転石臼の発明は、製粉作業の動力源として人間動力以外のものの利用を可能にし、小麦粉の大量生産の必要性の増大とともに新たな技術的発展をもたらした。すなわち、紀元前1500年頃の古代エジプトでの職業的製粉業者の登場、そして古代ローマ時代のパン焼き職人の登場という進展につれて、小麦粉を一度になるべくたくさん生産するために回転石臼が大型化されていった。
 やがてその結果として人間の手の力では動かすことができないような回転石臼が登場することになり、紀元前300年頃には図6のように人間の手に代わってロバや馬などの家畜の力が利用されるようになった。B.C.79年のポンペイ出土の回転石臼は高さが2mほどで、重さ数百キロという極めて大型のものであった。
 この場合の製粉作業プロセスは下記のような構成になっている。

[プロセス4] (回転運動させられる)ロバや馬などの家畜+回転石臼+小麦
                           → ロバや馬などの家畜+回転石臼+小麦粉

 このプロセス4では、回転石臼への動力供給源がプロセス3における人間から家畜へと変化したことを除けば、基本的な技術構成は変化していない。石臼が適度な回転速度で回転するようにコントロールするという役割も依然として人間が担っている。すなわち、家畜が「自己制御」によって自分で適度な回転速度で回転し続けるわけではなく、そうなるように人間が家畜を制御しているのである。
 次の技術発展は、家畜の代わりに動力水車を用いることによってなされた。紀元前二世紀末頃には図7のように回転石臼を横型動力水車によって直接駆動するタイプのものが登場したと考えられている。この横型動力水車製粉機は、図5の石臼の回転軸を動力水車の回転軸と共用可能なように直径を大きくし下方に長く伸長させられたような構造となっている。このように最初の動力水車製粉機は、動力水車の回転軸と石臼の回転軸を同一の一本の棒で兼用することで、水車で作られた動力を石臼に直接に伝達するというシンプルな構造となっていた。すなわち、動力を伝達する部分の機構がまだ未発達であった。
 なおプロセス3からプロセス4への技術的発展の内容の一つには、石臼の回転速度のコントロールを人間の判断によって直接的にコントロールするそれまでの方式から、横型水車の羽根にかける流水の量や速度で間接的にコントロールする方式に変更された、ということがある。横型動力水車の場合には、斜水溝で水車の羽根に水をかける構造のため、斜水溝の大きさで羽根にかかる流水の量をコントロールしたり、水の取り入れ口と水車の羽根部分との高低差の大きさを調節することによって水車の羽根にかかる流水の位置や速度をコントロールしたりすることができたのである。
 もちろん一般的には、動力機に供給するエネルギー量を一定に制御することだけではなく、作業機における負荷変動に対応してエネルギー量を制御する装置が必要とされるが、古代の動力水車製粉機の場合にはそうした装置が見られない。これは回転石臼による製粉作業プロセスでは、石臼自体の重量が大きいためその回転モーメントが動力機の出力に比して相対的にかなり大きくなるということや、上臼と下臼の接触面における摩擦力が大きかったことなどもあり、作業部における負荷変動を考慮しなくてもさほど問題がなかったためであろう。近代になると製粉機の石臼の回転を一定に保つ制御装置が登場するようになる。フィードバック制御の起源としてよく挙げられる1787年のワットの蒸気動力機関用の円錐遠心振子式調速機も、製粉機の石臼の回転を一定に保つためにそれ以前から用いられていた同種のものをワットが改良したものであった、と言われている。[補注1]
 この場合の製粉作業プロセスは下記のような構成になっている。

[プロセス5][コントロールされた流水]+横型動力水車+回転石臼+小麦
                          → 横型動力水車+回転石臼+小麦粉

 さらに紀元前一世紀頃になると、図8のように回転石臼を縦型動力水車によって駆動するタイプのものが登場した。縦型動力水車では水車の回転軸と回転石臼の回転軸を共有することが構造上無理であるため、縦型動力水車で作られた動力を回転石臼へと伝達する機構を工夫することがどうしても必要であった。そのために使用されたのが歯車機構である。初期のものは、畜力揚水車の構造を転用したものであったためか、図8に示されているように回転石臼の回転軸に取り付けられた歯車の方が水車の回転軸に取り付けられた歯車よりも大きいという減速歯車的構造をしていた。(その後、ゆっくりとした水流で動力水車を動かしても回転石臼側で十分な回転速度が得られるように、歯車の大きさの比が逆転され、回転石臼側の歯車の方の大きさが小さくなる加速歯車的構造に変えられた。)
 縦型動力水車の場合には、流水量や流水速度が季節によって大きく変化する場所で利用しようとすれば流水量の確保やコントロールのための機構が必要不可欠であった。すなわち縦型水車の羽根にかかる水流の位置・量・速さなどを一定にするために、ダムや貯水池などを建造して年間の流水量を平均化することが必要とされた。ただし水車専用のダムや貯水池を建造することはそれだけ製粉コストの増加をもたらすため、古代ローマでは流水の量や速度が平均化されていて、なおかつ、A.D.97−98年にフロンティヌスが行った調査から計算すると一日一人あたり1000リットルという豊富な流水量があったとも言われるローマ水道の流水が利用された。
 この場合の製粉作業プロセスは下記のような構成になっている。

   [プロセス6] [コントロールされた流水]+縦型動力水車+歯車機構+回転石臼+小麦
                        → 縦型動力水車+歯車機構+回転石臼+小麦粉

 プロセス5からプロセス6への技術的発展は、水車の大型化による出力上昇という技術的性能の向上を可能にするとともに、プロセス5の段階ではまだ不明確であった動力伝達作業という技術的構成要素の相対的分離を具体的な形で明確にしめすものとなった。すなわちプロセス6の段階になり、「動力の生産」を担う縦型動力水車、「動力の伝達」を担う歯車機構、動力を利用して「作業」をおこなう回転石臼という三部構成が明確になったのである。
 製粉技術のその後の発展は、歯車機構の改良など個々の構成要素に関わる部分的改良はあったが基本的構造は長い間変化していない。例えば完全自動化工場の先駆けをなすものとしてよく言及される18世紀末のオリバー・エヴァンスの製粉工場(図9)を見ても、三台の動力水車、動力の伝達と配分をおこなう歯車機構、六台の製粉機で基本的に構成されている。製粉から船による出荷までを自動的におこなう自動生産に向けての技術的発展を可能にしたのは、小麦とそれを製粉した小麦粉の自動搬送に「アルキメデス螺旋」を利用した点にあり、直接的な製粉プロセスそのものにおける構造的発展があったわけではない。[補注2]



4 技術構成的視点から見た技術発展

 これまで詳しく見てきた製粉技術の発展のあり方を概括すれば、製粉作業をする道具の技術的改良(石→杵と臼→サドル・ストーン→手押し挽き石臼→回転石臼)、動力の技術的改良(人間→家畜→横型水車→縦型水車)、動力水車へコントロールされた流水を給水する機構の成立(斜水溝、流水路、水門、水道、貯水池、ダムなど)、伝動機構の相対的独立(歯車機構の成立)という順で製粉に関する技術の発展がおこなわれてきたことがわかる。このプロセスを単純化して図式化すれば図10のように整理することができる。製粉技術の発展においても、一般によく言われているように、作業に関する技術的要素の発展が動力技術の発展に先行して起こっているのである。
 また製粉技術の発展方向は、製粉の直接的プロセスに対する人間の関与をさまざまな道具や機械によって代替する方向を向いたものであった。例えば製粉作業における回転石臼の利用は、製粉の直接的プロセスに対する人間の関わりを図3(プロセス1)の段階以前と比べて大きく減少させた。それによって回転石臼への回転運動エネルギーの供給および回転石臼の回転速度の制御という二つの要素的作業だけが人間が直接的に関与するものとして残されることになった。そして残されていた二つの要素的作業も、動力水車の利用開始とともに、動力水車への給水作業と水車の羽根にかける水流の位置・量・速さの制御作業に置き換えられた。こうして最終的に図8に示されているプロセス5の段階で製粉の直接的プロセスは人間の関与抜きに「自動」的におこなわれるようになったのである。

 製粉作業に関わる技術の歴史的発展過程に関する本稿における分析によって、「動力」「伝達」「作業」「制御」という四つの技術的要素の複合的構成という視点から技術発展の構造および特徴を技術論的に理解可能なことを了解して頂ければと願っている。なお本稿では製粉技術を例に取って議論してきたが、その他の技術の歴史的位置づけもこうした技術的構成という視点から技術論的に議論することができる。現代オートメーション技術を技術の歴史的発展段階上どのように位置づけるのかという問題に関しては別稿(3)において既に論じているのでそれを参照頂ければ幸いである。