佐野正博「現代物理学の自然観」
[初出]佐野正博(1991)「現代物理学の自然観」『ゑれきてる』東芝、第43号(1991年秋号),pp.28-32
機械論的自然観に対する物理学内在的批判の登場
--- 素粒子論と非平衡系の熱力学が内包する自然観/原子は分子ほど機械的には振るまわない。さらに電子は原子ほど機械的ではない。
二〇世紀前半の物理学が量子論と相対性理論によって特徴づけられるとすれば、二〇世紀後半の物理学は素粒子論と非平衡系の熱力学によって代表されると言えよう。
そして物理学者自身による機械論的自然観への批判は、量子論と相対性理論の登場とともに始まり、素粒子論と非平衡系の熱力学の成立とともに本格化した。二〇世紀物理学を代表するこれらの理論の中に含意されている自然像が明確にされるとともに、機械論的自然観の限界が物理学的にもはっきりとしてきたのである。
機械論的自然観への批判はそれの成立期からすでに存在したし、機械論的自然観が多くの科学者たちによって支持されるようになった後でも一九世紀のゲーテらの有機体論的自然観などの批判を受けてきた。しかし二〇世紀にいたるまで物理学者が物理学の理論体系それ自体に基いて機械論的自然観を批判するということはほとんどなかった。
というのも機械論的自然観はニュートン力学の理論体系とかたく結びついていたからである。機械論的自然観の正当性を疑うことはニュートン力学の正当性を疑うのと同じことであった。ところがニュートン力学の正当性は太陽系の運動や地上の物体の日常的運動によって数多くの場面で確証されている。
二〇世紀初頭になり量子論と相対性理論が登場するとともに、ニュートン力学の限界性が明らかにされその絶対的正当性が否定されることになった。それとともにニュートン力学と一体のものと考えられていた機械論的自然観からの脱却の必要性が感じられるようになった。
この点では物理学者と生物学者は逆の道筋を辿ることになった。一九世紀に物理学者は機械論的自然観の優位を確信していたのに対して、生物学者は生物が歴史的に進化するということを明らかにすることを通して非機械論的発想に力を与えていた。しかし二〇世紀になると生物学者はDNAという「部品」によって生物を説明するという機械論的立場から研究を進めるようになった。ダイソンが言うように、「生物学者たちにとっては、小さな世界へ下がってゆく一歩一歩の歩みはすべて、ますます単純で機械的行動へ向かってゆく歩みであった。蛙より細菌の方がいっそう機械的で、細菌よりDNA分子の方が一層機械的である。だが二〇世紀の物理学者は、もっと小さなものへゆくと逆のことが現れてくることを明らかにした。DNA分子を、それを構成している原子まで分解すると、原子は分子ほど機械的に振る舞いはしない。原子を原子核と電子に分解すると、電子は原子ほど機械的ではない。」(F・ダイソン『宇宙をかき乱すべきか』ダイヤモンド社、一九八二年、三五〇頁)のである。
量子論・相対性理論と機械論的自然観
しかし量子論や相対性理論がどのような意味において、自然を機械とのアナロジーで理解する機械論的自然観への根本的批判につながるのかは二〇世紀前半においては一般にはまだ明確には捉えられていなかった。すなわち、自然が物理学的にはニュートン力学的ではないということは確かであるにしても、自然観的にどのような意味で機械的ではないのかということはそれほど明らかではなかった。そのことは量子力学が英語で quantum mechanics と表記されるということの中に象徴的に示されている。
というのも、相対性理論は同時性の相対性や剛体の非存在など時空間の捉え方においてニュートン力学と対立しながらも、その理論の形成者であるアインシュタインが「神はサイコロ遊びをしない」と考えていたようにその決定論的性格などにおいて「古典論」たるニュ-トン力学と同質のものであり、その意味では機械論的自然観の基本的特徴と根本的に対立するものではなかった。このことは広く認められている。
ただし量子力学の方は波動関数の確率論的解釈などに見られるその確率論的性格のゆえに、決定論をその含意として持つ機械論的自然観と対立するとよく一般に考えられている。しかし量子力学においてもその基本方程式であるシュレディンガーの波動方程式そのものはニュートン力学における運動方程式と同じように決定論的な形をしている。観測による波束の収縮が起こらない限り、量子飛躍は生じず、量子力学における基本的対象である波動関数そのものは決定論的に変化し続けるのである。
またそもそも、神は自然においてまったくサイコロ遊びをしないということが、自然を機械とのアナロジーで理解するということから必然的に帰結するのであろうか。自然が決定論的であることは機械の特性ではなく、神の特性に由来するものなのではないか。そしてそのことはニュートン力学と機械論と理神論という三者の歴史的結合の中で強調されただけなのではないか。
例えば、賭博場のルーレットやスロット・マシーンなどを考えればわかるように、確率論的構造を持つということだけでは非機械論的であることにはならない。人間の眼から見て予測不可能な動きをする機械、確率論的には予測できるにしても次に正確にどのようになるかを決定論的に予測することができない機械というのは、物質的生産活動には確かに不向きであるが、ギャンブルには必要不可欠である。
神と機械論的自然観
ここで近代における機械論的自然観のそもそもの根本的特徴は何かということを少し考えてみよう。自然を機械とのアナロジーで捉えることに対してどのようなことが本来的な意味で批判となっているのかを理解するためには、自然が機械のようなものであるとはどういうことなのかをはっきりとさせておく必要がある。
自然を機械とのアナロジーで理解するということは、歴史的には自然の設計者・製作者としての神という観念と結びついていた。機械が存在するということはそれを製作した何者かが存在するということである。それゆえ自然を機械と同じようなものと見なすことは、自然という「機械」を製作した何者かの存在、すなわち、神の存在の承認を意味していたのである。
また時計がそうであるように、機械の部品をただ寄せ集めただけで機械が自然にひとりでに出来上がるわけではない。きちんと動く機械は、きちんとした設計に基づいて正確に秩序だてて組立てる必要がある。それと同じように自然も、神の設計図に基づいて秩序だてて組立てられたはずである。
ニュートンによれば、神は自然という「機械」を製作する際に、基本的「部品」として原子を用いた。そして自然を構成するその基本的物質に運動と運動法則を与えた。さらに神は自らの頭の中の設計図に基づいて、太陽系や生物を現在あるがままと同じに創造した。すなわち、現存の自然の秩序や構造は神の設計になるものであるとされた。
このような意味で、機械論的自然観は自然を構成する基本的「部品」や自然の現存の秩序の永遠不変性ということを想定している。
というのも、不完全な存在者である人間が作った機械の部品は摩滅し消耗するが、完全な存在者である神が作った「機械」である自然を構成する「部品」自体は摩滅も消耗もしないはずだからである。こうした機械論的発想は、初期の量子力学研究者の中にもなお見られた。最初は陽子や電子が原子に取って代わる永遠不変の究極的構成要素と考えられていたのである。
またきちんと組立てられた時計はなかなか故障したり壊れたりせず、いつまでも製造時の機能と構造を保つように、神によって組立てられた自然という「機械」の機能と構造も、すなわち、自然の秩序もいつまでも創造時と同じままで保持されるはずである。
これらの二つの想定が否定されるならば、神の存在はともかくとしても、自然が機械のようなものであるということの意味はかなり薄れてしまうことになる。
素粒子論の自然観的意味
機械論的自然観へのこうした意味での明確な批判は、相対性理論を父とし量子論を母とする素粒子論とともに始まった。素粒子論とともに、生成も消滅もしない粒子から構成される世界を想定する機械論的自然像は否定された。どの素粒子も人間や生物と同じように一定の寿命を持ちやがては「死ぬ」、すなわち、消滅する。そしてまた真空中で電子と陽電子が対発生することや原子核崩壊にともなって電子が原子核の中から飛び出すことに示されているように、素粒子は新たに「生まれる」。しかも、陽子が中性子とπ中間子に「分裂」する過程とともに、中性子が陽子とπ中間子に「分裂」する過程も存在することに示されているように、素粒子は相互に転化する。
このように素粒子論によれば、自然界は物理学的には絶えず生成と消滅を繰り返す相互転化の世界である。素粒子は生成・消滅し相互転化するという意味で、機械の部品のようなものではない。「万物は流転する」とするヘラクレイトス的自然観が復権したのである。
生成と消滅を繰り返す素粒子のこうした世界はカオスの世界である。太陽系など安定した秩序が存在するマクロの世界とは異なり、素粒子のミクロの世界には現象的には秩序は存在しない。その結果として、自然的秩序の存立構造ではなく自然的秩序の形成が問題となることになった。太陽系の惑星に関するケプラーの三法則など現存するコスモスの秩序がいかに自然法則によって支えられているのかの説明を歴史的課題としたニュートン力学の場合とは異なり、素粒子論的自然像では現象的なカオスの中からいかにして原子核や現存の宇宙などの自然的秩序が形成されてきたのかが問題になる。ビック・バン理論はそうした観点から素粒子論を一般相対性理論と結びつけて宇宙的規模で展開した典型例である。
非平衡系の熱力学の自然観的意味
機械論的自然観への第二の現代的批判は、プリゴジンらによる非平衡系の熱力学の発達とともに登場する。もっとも熱力学という学問領域自体は19世紀に形成されたものである。そしてその第二法則たるエントロピー増大の法則によれば、エントロピーは時間とともに不可逆的に増大する。エントロピーを場合の数の対数にボルツマン定数を掛けたものとするボルツマンの統計力学的解釈が認められるようになるとともに、エントロピーの増大は無秩序さの増大として一般に理解されるようになった。このことは、神が自然の中に置いた秩序が自然に壊れるということを意味しており、機械論的自然像とは対立するものである。
しかしエントロピーを無秩序さと結びつける発想それ自体も19世紀においては熱力学の統計力学的基礎づけによって支えられていたものであったため、エントロピー増大の法則はニュートン力学とかたく結びついた機械論的自然像を決定的に破壊するほどの力は持ちえなかった。というのも統計力学的解釈によればエントロピー増大の法則は単に確率論的な二次的法則すなわち近似的法則に過ぎないのであり、自然界を根底的に支配している一次的な法則はニュートン力学的法則だからである。結局のところ、一九世紀的な意味ではエントロピー増大の法則もニュートン力学を覆すようなものではなかったのである。
しかしながらこうした状況は量子力学的に基礎づけられた熱力学の発展とともに変化した。プリゴジンによれば、力学的記述と熱力学的記述は、量子力学における位置と運動量の両者がそうであるように相補的なのであり、どちらか一方が他の一方に還元されるようなものではない。熱力学第二法則を「動力学に導入されたある種の近似法や我々の《知識の欠如》から生じた見掛け上の事実として説明するのではなく・・・・基本的な物理的事実として」(I・プリゴジン『存在から発展へ』みすず書房、一九八四年、二二一頁)認めることが物理学や化学の最近の発展の結果として必要になっている。というのもプリゴジンによれば、不可逆性とはミクロなレベルにおける不規則性の、マクロなレベルにおける現れとして客観的なものだからである。
二〇世紀の熱力学と一九世紀の熱力学の違いは、自然界における秩序に関しても存在する。そしてそのことが機械論的自然観への批判として重要な意味を持っている。無秩序の増大としてのエントロピー増加によって特徴づけられる一九世紀的な古典熱力学は本質的には自然界の秩序や構造の破壊に関する理論であった。エントロピーの生成速度は秩序や構造の破壊の速さを表わす量であった。しかし当然のながらこのような理論は、自然界の秩序や構造の創造に関する理論によって補われなくてはならない。自然界における秩序や構造は決して単純に破壊には向かっていない。それどころか宇宙創造の際のビック・バン以後の宇宙進化や生物進化が示しているように、宇宙の諸天体や生物の秩序や構造は時間とともにより高度化さえしている。すなわち、太陽系や銀河系、宇宙の泡構造、そして人間を頂点とする多種多様な種の進化の系列など数多くの秩序や構造が、時間の経過とともに形成されてきたのである。
また20世紀前半頃までは、結晶のように平衡状態においてのみ安定な秩序や構造が出現するのであり、非平衡状態は不安定な状態であり安定な秩序や構造がないと一般に考えられてきた。しかし実際には、粘性のある液体の入った容器の下を熱することによって生じる対流に現れる一定の規則的構造(ベナール対流)や、臭化カリウムによるクエン酸の酸化反応において酸化の触媒として入れられているセリウムの三価イオンと四価イオンの濃度が一定周期で増減を繰り返すこと(ジャボチンスキー反応)などのように、非平衡状態においても一定の秩序や構造が現れる。すなわち、非平衡条件の下でエネルギーと物質を外界と交換しながらも、一定の秩序や構造が形成され維持されるのである。散逸構造と呼ばれるそうした構造の存在は、有機的生命体だけではなく、無機的自然においても秩序や構造が自己生成し保持されることを示している。
このような意味で、神が自然界の現存の秩序を宇宙創造の瞬間に「製作」したとするような機械論的自然観は誤っていると物理学的にも考えられるようになってきた。プリゴジンとスタンジュールが主張するように、「人工的な現象は決定論的で可逆的であるかもしれない。しかし自然の現象は乱雑性と不可逆性という本質的要素をもっている」ということから、物質は機械論的世界観で述べられたような受動的なモノではなく、「自発的な活性」を持ったものである、と考える新しい物質観が20世紀後半の物理学や化学の発展の中で形成されてきたのである。(I・プリゴジン/I・スタンジュール『混沌からの秩序』みすず書房、一九八七年、四四-四五頁)
自然は自己組織化の能力を持った自己運動する物質から構成されているのであり、自然界の秩序や構造は自然それ自身によって歴史的に生み出され保持されてきたとする自己生成的自然観が今や主流になりつつあるのである。