科学における理論「評価」問題を考えるための歴史的事例(1)
「論より証拠」、すなわち、科学的データの一次性とは何かを考えるための歴史的事例
事例1>野口英世の黄熱病の病原菌の発見
事例2>緒方正規の「脚気病菌」の発見
事例3>脚気の原因に関する高木兼寛の見解
ここで取り上げている三つの歴史的事例は科学的データの一次性を認めることを迫るような事例であり、科学活動においては「論より証拠」というアプローチを採用すべきであることを示すものばかりである。しかしながら科学の中のいろいろな歴史的場面を考察してみるならば、必ずしもそうしたアプローチだけが科学活動において有効だというわけではないことがわかる。
<科学理論の正しさを判断する「最終」的基準としての科学的データという次元の問題>
と、
<科学者が対象に対してどのようなアプローチを取るかという次元の問題>
(「ある特定の歴史的時点において正しいと主張されている経験的データすべてを本当に正しい」ものとして受け入れて研究活動を進めるアプローチを取るか、「自分が正しいと信じる科学的理論の有効性を確信し、理論と矛盾する経験的データの一部を不適切(あるいは無関係)なものとして無視」して研究活動を進めるアプローチを取るか、というような問題)とは区別しなければならない。
事例1>野口英世の黄熱病の「病原菌」の発見(1918年)
梅毒の病原体(梅毒スピロヘータ)の発見者として既に有名であった野口英世(1876-1928)は、1918年に黄熱病
[注1]
の病原菌「レプトスピラ・イクテロイデス」を発見
[注2]
したと公表している。そして黄熱病の研究のために500匹以上の猿を研究用に使用するなど多額の研究費をかけた。野口の発見に基づき、黄熱病に対するワクチン(野口ワクチン)の開発が行なわれた。野口は自らの発見が科学的に正しいものであり、その発見に基づいて製造されたワクチンの有効性もかたく信じていた。
南アメリカの黄熱病は1925年頃までには収束したが、1924年からアフリカで黄熱病の発生が伝えられたため、野口は1927年に黄熱病研究のためアフリカに向けて出発した。
野口はアフリカでその年の大みそかに病気になったが、自分ではその病気は軽い黄熱病であり、それが軽症で済んだのは「アフリカ遠征に先だって、ニューヨークで野口ワクチンを打っておいたから」であると考えていた。
また、1928年1月19日付けで野口英世の勤務先のアメリカ・ロックフェラー医学研究所のフレクスナー所長宛ての手紙の中では、「私は今では、南米の黄熱にも、アフリカの黄熱にも免疫になりました。だから安全に実験を続けています。ところがどうでしょう。
ストークスは死にました。彼はイクテロイデス・ワクチンを信用せず、打たなかったので死んだのです。
」とまで書いている。
しかし結果的に野口英世のそうした判断は誤りであり、1928年5月21日にアフリカのガーナのアクラで黄熱病のため死亡してしまった。野口は、病原菌アプローチにこだわり、自分の病原菌説に不利な経験データ(ウィルス説に有利な経験データ)を無視した。
今日では黄熱病の病原体は、黄熱病ウィルスであることが明らかとなっている。また当時でも、野口による黄熱病病原体「発見」に対してはウィルス説に立つ批判があった。例えば1927年にストークスという学者は、漉過器でこした黄熱病の患者の血液をアカゲザルに注射して黄熱病の症状が現われることを示している。
事例2>緒方正規の「脚気病菌」の発見(1885年4月) --- 動物実験の結果に基づく発見
緒方正規(1853-1919,1887年に東京大学の初代衛生学教授、1898年東京大学医科大学学長に就任)は1885年(明治18年)に「脚気病菌」を発見したと公表した。1885年4月2日には神田一ツ橋の大学講堂で講演し、4月7日の『官報』の526号にその内容が掲載されている。
緒方は、死亡した脚気患者の内臓を調べ、そこに未知の細菌(バチルレンと命名)を発見した。そしてその細菌を脚気患者の血液の中にも見出した。しかも、その細菌を培養しネズミ、サル、イヌ、ウサギ、ハトに接種するという動物実験も行なったところ、それらの動物に対してピンセットでつまんだり注射針でつついたりした場合、耳などでは反応があるのに下肢では反応がないというように、下肢の知覚麻痺を中心とする脚気的症状を示した。それゆえにこの細菌を脚気菌と断定した。
緒方が「脚気菌」を発見したと発表した頃、オランダのペーケルハーリングその他何人かも、それぞれ独立に「脚気菌」を発見している。(例えばペーケルハーリングは1888(明治21年)年頃、ある球菌が「脚気菌」であると公表していた。)
これに対して、緒方の助手をしていたこともある北里柴三郎(1852ー1931)
[注2]
は、ペーケルハリングの細菌を培養しそれがありふれたブドウ状球菌であることを解明している。また北里は緒方の発見も誤りであるとして否定した。
事例3>脚気の原因に関する高木兼寛の見解(1885年1月) --- 疫学的調査データに基づく「栄養不良原因」説の提唱
高木兼寛(1849-1920,日本海軍の第二代医務局長,慈恵医大の創設者)は、海軍から最初にイギリス留学した軍医であったこともあり、自らが学んだイギリス流の医学を重視し、疫学的な手法によって脚気発生の原因をつきつめようとした。(東大や陸軍ではドイツ医学が中心であったが、海軍はイギリス流の医学を重視していた。)
彼は、各地の監獄で脚気の発生が少ないことに注目し、海軍の兵隊の食事と監獄の食事を比較した。そして脚気という病気が、病原菌によるものではなく、窒素が不足し炭素が多すぎるという栄養上のアンバランスによるものであると考えた。そこで彼は、そうした栄養のアンバランス解消の最も手っとり早い方法として麦を食べることを提唱した。
高木は自らのこうした仮説の確認のために、ニュージーランド、南アメリカそしてホノルルを回る航海を行なった二つの船の乗組員に関して、献立を変えることによって脚気病患者の発生率にどのような差異が生じるのかを比較した。1883年にそのコースを航海した「龍驤(リュウジョウ)」では、乗組員376人中169人が脚気にかかり、その内の25人が死亡していた。そこで高木は、1884年にそれと同じコースを航海した「筑波」で自らの考えに基づく献立を採用させた。そうしたところ、脚気患者は激減し10人にとどまった。しかもその内の8人は高木の献立を受け付けない人であった。高木はこの結果を1885年1月31日に大日本衛生学会で発表している。
[注1]
黄熱病はメキシコ大西洋岸、中部アメリカ、赤道アフリカ、アフリカ西海岸に発生する地方病で、肝臓が侵され、強い黄疸を示し、最後に黒い血をはいて死ぬ。蚊によって媒介されると考えられていて、「西半球の恐怖」と恐れられていたが、蚊の駆除くらいしか防疫手段はなかった。
ロックフェラー財団は1914年から黄熱病問題を取り上げ、1918年には黄熱病の流行地エクアドルに調査団を派遣している。その調査の中で野口は黄熱病の病原体である細菌を発見したと考えたのである。
[注2]
北里柴三郎をめぐるエピソードに関しては、田口文章(北里大学衛生学部微生物学教室教授)「北里柴三郎博士の秘話」
http://tag.ahs.kitasato-u.ac.jp/KITASA-2/KITA-TTL.HTM
を参照されたい。
関連事項説明
脚気という病気
脚気とは、末梢神経が冒されて足の感覚が麻痺したり、脛(すね)にむくみができる病気である。そのため、別名「あしのけ」、「脚病(かくびょう)」とも呼ばれる。また江戸時代から脚気に対して転地療法が取られていたことが示すように、田舎に住む人にはあまり見られず、江戸や大阪など都会でよく見られる病気だったので「江戸わずらい」とも呼ばれる。
脚気は江戸時代や明治時代においては現在とは異なり、死に至る極めて恐ろしい病気であった。
脚気による心筋障害(その当時は「脚気衝心(かっけしょうしん)」と呼ばれていた)のため、約三日間猛烈にもだえ苦しんだ後に死に至るので恐れられていた。第13代将軍徳川家定は35歳の時に、第14代将軍徳川家茂は20歳の時に、脚気が原因で死亡している。脚気の原因をめぐって栄養素摂取不足説を主張した高木兼寛と対立し、細菌感染説を主張した陸軍軍医総監(陸軍の軍医のトップ)の森林太郎(作家の森鴎外)の祖父・森白仙も、1861年に脚気が原因で死亡している(森林太郎は祖父が死亡した翌年の1月19日に生まれている。)。
明治時代においても、明治天皇がこの病気に苦しめられていたし、軍隊で脚気による死亡者が大量に発生するなど重大な社会的問題の一つであった。例えば、1875年=明治8年の陸軍の報告書によれば、東京において治療を受けたもの402人の内で死亡した者が89人、すなわち、約23%という高率の死亡率になっていた。また海軍は陸軍に比べれば低いものの、1874-1877年の間の患者の平均死亡率は約5%であった。さらにまた、日清戦争では戦死者が千人弱に対して脚気で死んだ兵士が3,900人、日露戦争では、35万人傷病、戦死4万6千人に対して、なんと21万人が脚気を患い、その内の2万8千人が死亡した、と言われている。なお一般人でも、1940年(昭和15年)頃まで日本で脚気による死亡者の数は毎年一万人を下ることはほとんどなかった、と言われている。
脚気は実際には、緒方正規や森林太郎らの東大医学部・陸軍軍医グループが想定していたような細菌感染による病気ではなく、ビタミンB
1
の不足によって生じる病気(栄養失調症)であった。そのことは1897年にオランダのC・エイクマンによって明らかにされた。(エイクマンはこの功績により1929年にノーベル医学生理学賞を、ビタミンの発見者として知られるF・G・ホプキンスとともに授賞している。)
日本における脚気の罹患率の拡大は、精米法の技術的進歩にともなう白米食の普及を原因としたものであった。
白米は、玄米の「余計な部分」を取り去ってきれいにしたもの(精米したもの)であるが、その精米過程で玄米の胚芽などの部分に含まれるビタミンB
1
も「余計な部分」として取り除かれてしまったのである。確かに、玄米は堅くて味は悪い。しかし白米に無い栄養素を豊富に含んでいたのである。
江戸時代においては白米はちょっとした贅沢品で、日常的に食べていたのは将軍や武士や、江戸・大阪など都会の一部の人間だけだった。そのため脚気は「江戸わずらい」とも呼ばれたのである。精米技術の未発達=未普及ということが脚気が日本全国に広まらなかった一因でもあった。
ところが、明治時代になり精米法の技術的改良の結果として白米が安くなり、庶民の米食も白米になったために脚気が日本全国に蔓延した。とりわけ寮生や軍隊の兵士らは白米食中心の食生活を取ったために罹患率が高くなった。
顕微鏡による細菌の発見ラッシュの時代としての19世紀末
通常、肉眼で見える可視の限界範囲は0.1mmまでと言われており、大きさが約1ミクロンほどしかない細菌は光学顕微鏡が発明されるまで観察=発見することは当然のことながらできなかった。(細菌よりもさらに小さいウイルスにいたっては0.25〜0.025ミクロンしかなく、電子顕微鏡が開発されるまでは見ることができなかった。)
「最初の細菌の発見は1676年、オランダの博物学者レーウェン・フックの発明した顕微鏡の誕生まで待たなければならなかった。フックは一枚のレンズを精巧に磨き、150倍の単眼顕微鏡を作り、人類として初めて目に見えない細菌を発見し、彼は九〇歳を超えるまでさまざまな細菌の記録を残した。このことにより細菌による感染症の研究へと飛躍的に進歩した。」監修・安西定(昭和大学医学部公衆衛生学客員教授・日本疫学会名誉会員)「感染症を考える」
http://www.lifence.ac.jp/goto/spe/spe4.html
と言われている。
顕微鏡技術のさらなる改良にともなって、19世紀末に細菌発見ラッシュが続くことになる。
例えば、ドイツの細菌学者・医学者コッホ(Robert Koch,1843〜1910)は、結核菌を1882年に、コレラ菌を1884年に発見するなど多くの病原菌を発見している。1894年に日本の北里柴三郎とフランスのエルザンがネズミのノミを宿主にした動物由来のペスト菌を発見している。また1898年には志賀潔(1870〜1957)が赤痢菌を発見している。[この時、志賀潔は27歳であった。赤痢菌の学名をシゲラShigellaと呼ぶが、これは発見者の志賀の名前に由来するものである。]
緒方正規や森林太郎らの東大医学部・陸軍軍医グループが「脚気は細菌感染を原因とした病気である」というアプローチにこだわった背景的状況としては、19世紀末が上記のように病原菌の発見ラッシュの時代であったということがある。
コレラと日本の迷信およびコッホに関するエピソードとしては、「死と伝染病」
http://www.sekise.co.jp/sougi/institut/siin/siin06.html
が詳しく参考になる。こうしたエピソードが伝染病と思われる「ほとんどすべて」(?)の病気の原因として病原菌を探すアプローチの有効性を強く確信させる原因となった。
なお細菌学の歴史に関しては、 志賀 潔著(田口文章 編)「細菌学を創ったひとびと〜大発見にまつわるエピソード〜」『北里メデカルニュース』1982年発行(1997年7月1日第二改)
http://tag.ahs.kitasato-u.ac.jp/KITASA-2/REKISI.HTM
が有用である。
事例1の参考文献
中山茂「黄熱病の菌を見た」
『思い違いの科学史』朝日新聞社,1981年,pp.171-182
中山茂「野口英世」
『スキャンダルの科学史』朝日新聞社,1989年,pp.3-13
事例2・3の参考文献
板倉聖宣『模倣の時代』
上下2巻本、仮説社、1988年、上巻 442頁・下巻 620頁
常石敬一「幻の脚気菌発見」
『スキャンダルの科学史』朝日新聞社,1989年,pp.50-60
松田誠『高木兼寛伝 脚気をなくした男』
講談社、1986年
吉村昭『白い航跡』
上下2巻本、講談社、1991年
NHK取材班編「ライバル日本史4 抗争」
角川書店(角川文庫 10177)、1996年
慈恵医大のホームページの中の「
創設者 高木兼寛に関する本
」のコーナーには3,4,5の文献に関して、北大の杉山氏のホームページの中の「
小説で読む日本の科学史・技術史
」のコーナーでは1,3,4の文献に関して、それぞれ簡単な紹介があり参考になる。
また、東京慈恵会医科大学の創設者としての高木兼寛に関しては、
http://www.jikei.ac.jp/outline/histry.html
が参考になる。