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データの歴史的限定性と「科学理論」評価の問題
1.不十分な<データ>に基づく<理論>評価の問題
(1) 歴史的に限定されたデータだけでは「絶対的に正しい」理論評価はできない
科学史は、自らが対象としている科学者たちが歴史的限定の中で生きていることを前提としている。
過去の科学者たちは現代的後知恵からすればさまざまな誤りを犯している場合もある。
しかし科学史の問題は、そうした意味での誤り(あるいは歴史的限定を越えた正解)ということにあるのではない。歴史的限定の中での科学者の科学的行為のあり方をどう理解するかが問題なのである。その意味で科学史は、歴史的限界を超えた「絶対的に正しい」理論評価を問題にするものではなく、歴史的な状況の中での理論評価のあり方を扱うものである。(ただし科学史は、ポパー的科学論のように「状況の論理」を扱うわけではない。「状況の歴史的構造」を扱うのである。)
もちろん科学史家自身も歴史的限定の中を生きている。科学史家は、「絶対的に正しい」理論評価を問題にしないにしても、過去ではなく現在を生きる歴史家として「後知恵」的視点からの理論評価を問題にせざるを得ない。というのも過去に「埋没」するならば、現在の歴史家ではなく、自分が研究対象としている過去の当事者の一人になってしまうであろう。・・・もっとも、歴史的過去の問題が歴史的現在の問題でもある場合にはそうはっきりとした分離は不可能であるけれども。
(2) 複数の可能な科学的アプローチの内のどれを選択するかの決断は、経験的データだけではなし得ない。また実際に科学者はそのような形で決断を下している。
そのことは、2で論じるように
認識論的には
「科学的知識には<データ>と<理論>という二つの異なる次元がある」ことによるとともに、3で論じるように
社会的には
「科学活動が多様な歴史的=社会的諸コンテクストから構成されている」ことによるものである。
2.<データ>と<理論>という科学活動の二つの位相の問題
「論より証拠」
vs
「証拠より論」
----
「<理論>よりも<データ>」 vs 「<データ>よりも<理論>」
「理論の経験的正当化」−「理論の経験的導出」
−
「理論の理論的導出」−「理論の理論的正当化」
というスペクトルを描く<科学の歴史的過程>
3.科学活動を構成する多様な歴史的=社会的諸コンテクストとそれに伴う理論の「科学的評価」の文脈依存性と多面性
(1) 顕微鏡の発明と普及→
顕微鏡による細菌の発見
→細菌説の学問的流行
(2) 西洋医学の内部的対立[ドイツ医学(東大医学部・陸軍>森) vs イギリス医学(海軍>高木]
(3) 漢方(東洋医学) vs 西洋医学 という対立
4.
科学における理論「評価」問題を考えるための歴史的事例
[最終改訂日時]1998.10.01
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