「科学的認識における相対性と相対主義」の注

(1) J.Leplin,"Truth  and Scientific Progress",in Scientific Realism,University of California Press,1984,p.193
(2) Popper,Objective Knowledge,Oxford U.P.,1972,p.46(K・ポパー『客観的知識』森博訳、木鐸社、一九七四年、五六ページ)。もちろんポパー自身は、帰納の問題に対するヒュームの批判に基づいて、科学理論といった普遍言明の真理性が論理的には証明できないという論理的根拠に基づいて自らの主張を展開しているのであるが、科学理論の歴史的変化を「推測と反駁の過程」「不断の革命」として捉える彼の主張はこの第一の相対性の事実を裏づけの根拠としている。
(3) ケプラー『宇宙の神秘』大月真一郎・岸本良彦訳、工作舎、一九八二年、二六ページ。ただし、こうしたイデオロギー的考えにも関わらずケプラーが観測との一致を追求していたということが重要である。ケプラーは観測によって仮説を確かめられなければならないと考えていた。ケプラーが数多くの様々な仮説の中で正多面体仮説を正しいものと考えたのは、その仮説に基づいて計算された各惑星の公転半径の比が観測値とほぼ適合していたことにある。もし観測値とまったく一致していなかったとしたらケプラーは正多面体仮説を正しいとは考えなかったであろう。
(4) 村上陽一郎「科学史の哲学」『科学史の哲学』朝倉書店、一九八〇年、三七−三八ページ。確かに、コペルニクスの意識の内部において、あるいは、コペルニクスの時代において科学的なものとそうでないものとの区別が意識されていなかったということは歴史記述としては正しい。問題は、科学的なものと非科学的なものとのカテゴリカルな区別を認識論的にも認めないのかどうかということにある。
(5) 廣松渉「科学論の今日的課題と構案」『思想』一九八三年一〇月号、二九ページ
(6) ガリレオ『天文対話』青木靖三訳、岩波文庫、下巻、七〇−七一ページ
(7) このためにガリレオは地動説の正しさの論証のために別の議論を必要とした。ガリレオは地球の運動によらなければ潮汐現象が起こるはずがないと考え、それによって地動説の正しさが決定的に証明できると『天文対話』の中で考えた。しかし皮肉なことに、それは誤りであることがニュートン力学によって証明された。潮汐現象は地球の自転と公転の合成運動による結果として起こるものではなく、月などが地球上の海水に及ぼすの万有引力によって生じるのである。
(8) クーン『科学革命の構造』中山茂訳、みすず書房、一九七一年、五ページ
(9) 太陽や星の運動に基づく時間の測定の場合にも、その科学的意味は科学理論との関係において与えられた。
(10) 廣松渉、前掲論文、六ページ
(11) 岩崎允胤・宮原将平『科学的認識の理論』大月書店、一九七六年、58ページ
(12) ライプニッツ『ライプニッツ論文集』園田義道訳、日清堂書店、一九七六年、三八−三九ページ、四八−四九ページ
(13) プトレマイオス『アルマゲスト』薮内清訳、恒星社厚生閣、一九八二年、一三ページ
(14) こうした観点からいえば、古代天文学者たちのイデオロギーとしての道具主義は、自然哲学者からの天文学者の相対的自立を示すという意味を持っていたと考えることができる。このことに関しては、例えばP・チュイリエ『反=科学史』小出昭一郎監訳、新評論、一九八四年、四九ページを参照のこと。
(15) ガリレオ「クリスティーナ大公妃宛手紙」青木靖三編『ガリレオ』平凡社、一九七六年、二〇九ページ
(16) 地動説をめぐるガリレオとキリスト教会との対立の背景には、こうした役割分担を認めるか否かに関する政治的対立がある。ガリレオの主張を認めれば、聖書の中の自然に関するどの記述も字句通りの記述と受け取ることができないものであり、神学者やキリスト教会は自然認識に関して何らの発言権も持たないことになる。これに対してベラルミーノがそうであるように、キリスト教会の側は、聖書のある部分を字義通りに解釈するのか比喩的に解釈するのかも含めて聖書解釈の権限は教会にのみ属するものであり自然哲学者にはまったくないとするとともに、信仰の立場からも自然認識の内容について発言が可能であると考えていた。それゆえ現象説明の道具としては地動説を許容し得たが、実在の真なる理論的説明としては地動説を認めることができないとしたのである。
(17) ニュ−トン『光学』島尾永康訳、岩波書店、一九八三年、三二六ページ
(18) ライプニッツ「学問的精神について」清水富雄訳(『世界の名著 第25巻』中央公論社、一九六九年)、四七六ページ
(19) 例えばスピノザも「信仰ないし神学と哲学の間に何らの相互関係あるいは親近関係も存しない・・・哲学の目的はひとえにただ真理のみであり、これに反して信仰の目的は・・・服従と敬虔以外の何物でもない。さらに、哲学は一般的概念にもとづき、自然からのみ導き出されなければならない。しかし信仰は物語と言語とのみにもとづき、聖書と啓示とからのみ導き出されなければならない。」(スピノザ『神学・政治論』畠中尚志訳、岩波文庫、下巻、一九六九年、一四二−一四三ページ)というように神学的認識と哲学的認識との絶対的断絶を主張している。
(20) ダランベール,Traite de Dynamique,2nd ed.,Paris,1758の序文(『近代科学の源流 物理学篇U』北大図書刊行会、一九七六年、二五ページ)
(21) Hegel,Enzykopadie II,§246,Hegel Werke 9,Surkamp,Z.15(ヘーゲル『エンチュクロペディー』樫山欽四郎訳、河出書房新社、一九六八年、二〇〇ページ)
(22) Hegel,Enzykopadie I,§7,Hegel Werke 8,Surkamp,Z.50(ヘーゲル『小論理学』松村一人訳、岩波文庫、一九七七年、七二ページ)
(23) このことにともなう科学者のイデオロギーの歴史的変化に関して詳しくは拙稿「科学をめぐるイデオロギーの形成」(『制度としての科学』科学見直し叢書 第2巻、木鐸社、一九八九年)を参照されたい。
(24) このことに関して詳しくは初期量子論を例として論じた拙稿「初期量子論の形成と受容」(『科学における論争・発見』科学見直し叢書 第3巻、木鐸社、一九八九年)を参照されたい。
(25) 道具主義に対する批判に関して詳しくは拙稿「物理学における主観と客観の問題」(『看護研究』第16巻第3号、医学書院、一九八三年)を参照されたい。
(26) もっとも相対主義者的立場からは、村上陽一郎「科学史の方法」『講座・転換期における人間 第六巻 科学とは』岩波書店、一九九〇年、六六−六七ページの議論に見られるように、将来的にはまた一九世紀以前の状態が再び到来するであろうという反論がなされるであろう。確かにその限りでは相対主義者も私も将来の歴史による判定にかけるしかない。しかし事実による判定という発想そのものは、イデオロギー的というよりは科学的な発想である。
(27) このことと単純な還元主義とは異なる。マクロな物理法則がミクロな物理法則にすべて還元されると主張しているわけではない。ここでは、マクロということの意味がミクロの観点から見た構造としても与えられるということ、すなわち、還元ではなく対応関係を主張しているのである。マクロな物体であるということは、波動関数の位相の干渉効果を打ち消すような構造を持っていること、すなわち、量子的効果を打ち消すようなミクロ・レベルの構造を持っている多体系であるということである。マクロな領域ということの相対的独自性がその意味でミクロなレベルでの根拠を持っているということである。
(28) C・A・ラッセル編『OU科学史T 宇宙の秩序』渡辺正雄監訳、創元社、一九八三年、一六六ページ
(29) 理論依存性のために異なる理論どうしの比較が無意味になるという共約不可能性に基づく相対主義的主張に対する批判に関して詳しくは、拙稿「理論比較と共約不可能性」(『科学基礎論研究』科学基礎論学会、第62号、一九八四年)を参照されたい。