- 既存の汎用的モジュールを利用したことによる低価格性[8080を搭載し、組み立てキットの価格は$395]
そのCPUは8080であった。"Popular Electronics”の1975年1月号と2月号における記事の中での価格は組み立てキットで395ドル、組立済みで495ドルであった。しかし同誌の3月号から掲載された広告ではキットが439ドル、組み立て済みで621ドルと値上げされていた。(注 富田倫生(1994)『パソコン創世記』http://attic.neophilia.co.jp/aozora/htmlban/gopc.htmlの記述による)。
MITS社がAltariの売り出し価格を最初は395ドルに設定したのは、インテル社が8080を特別価格(somewhat of an in-house
joke)の75ドルで販売してくれたおかげである。(インテル社は8080の市販価格を、その当時売れていたIBMのSystem/360という大型コンピュータにちなんで360ドルとしていたと言われている。)
その当時、普通のコンピュータは3万ドルはしていた(http://www.eee.bham.ac.uk/woolleysi/teaching/microhistory.htm)と言われている。そのため、 通信販売という形式で販売されたものであったが、コンピューターのホビー・ユーザーに支持され、3カ月間に4,000人からの注文があったと言われている。
このことに関連してビル・ゲイツは、「それは興奮しました。驚いたのは価格が低かったことです。マイクロプロセッサー「8080」が単体で360ドルだったときに、この「アルテア」という名のキット・コンピューターはさまざまな部品込みでほぼ同じ価格だったのです。非常に興奮しました。」(相田洋,
大墻敦(1996)『新・電子立国 第1巻 ソフトウェア帝国の誕生』日本放送出版協会,p.94-95)というように証言している。
- 技術的優位性(1) --- ハードウェアの拡張性[さまざまな拡張ボードを差すことのできるバスが搭載され、拡張性に富んでいた]
Altariの機能拡張のために、様々な拡張カードを指すための拡張バスは全部で何と18本もあった。ただし、あらかじめその内の二本は、CPUカードとインターフェースカードが差されており、実際に拡張用に使えるのは16本であった。
拡張バスの数が18本あったことは、小松『半導体コレクション展示会場』 の中のAltair関連Webページhttp://www.st.rim.or.jp/~nkomatsu/s100bus/Altair8800bIntview.htmlにあるAltair8800bの内部写真からもはっきりと見てとることができる。
Altairは高度なマニア向けとして、最初から拡張カードによる機能拡張や性能向上を予定したのである。例えば、IEEE
Computer,1975に掲載されたMITS社の広告には、同社で現在開発中のモノとして、 "a floppy disc system,
CRT terminal, line printer, floating point processor, vectored interrupt (8
levels), PROM programmer, direct memory access controller and much more."があると記されている。(THE
UC DAVIS COMPUTER MUSEUM ,"Great Microprocessors of the Past and Present"
(V 4.0.0),http://wwwcsif.cs.ucdavis.edu/%7Ecsclub/museum/cpu.html#appenb)
なお、拡張バスの規格 ---- 拡張バスのコネクタのピン数が100本であったことから、S100という名称で呼ばれていた。最終的にこれはIEEEの規格(IEEE696)として認定された。
---- をMITS社が公表し、他社に使用を許したため、拡張カードはMITS社だけでなく、数多くのサード・パーティの会社からも発売された。
こうした拡張性の高さ、および、実際に様々な拡張カードが発売されたことがAltairの人気を支えた一つの技術的要因である。
石田晴久「紙テープとテレタイプからはじまったマイコンがおどろくほど複雑なパソコンになった」(SE編集部編『僕らのパソコン10年史』翔泳社,1989年所収)p.22によれば、「はじめから大きなキットとしてつくってあったので、空いているスペースにS100という規格のボードを追加することができました。S100のSはスタンダードのS、100はピンの数が100本のコネクタを使っているということですが、この規格にあわせたボードをつくって売るビジネスがそれから急に盛んになってきたのです。メモリボードを追加し、CRTディスプレイ用のコントローラをつくって、まずはテレビをディスプレイとして使うようになりました。そのうち、カラーディスプレイのコントローラを作って売る、入出力装置にカセットテープを使える回路を作って売り出す、というように、マニア達の手によってアルテア用の周辺機器がたくさん作られていった」というように、複数のボードを差し込むための拡張性がすごく高かった。このことがアルテアが人気を博した原因の一つであると思われる。
なおこうした拡張スロットの数の多さは、その後のパーソナル・コンピュータにおいても同様の傾向であり、Altair以後に人気を博することになるAppleIIの場合も、Altairほどではないが、8本の拡張スロットを備えていた。
- 技術的優位性(2) --- 8ビットPC時代における拡張バスのドミナント・デザインとしてのS-100バス規格
なおAltair8800の拡張バスS-100の規格が、しばらくしてIEEEにおいて標準規格として認定されるほど(デファクト・スタンダードde facto
standardとしてのS-100規格がデジュアリー・スタンダードde jure standardに認定されるほど)普及したことから、S-100規格の拡張バスを備えたAltairのクローン機("S-100
machine") がIMSAI., SOL, Morrow, Godbout/Compupro, Dynabyte, Cromemco,Vector
Graphicなどの各社から発売された。
- 技術的優位性(3) --- 利用可能な汎用的ソフトウェア(プログラム言語)の存在[Microsoft社の原点・・・Altair用にBASICを移植]
AltairのPCとしての技術的優位性には、BASICというプログラミング言語がAltair上で動いたということがある。
もっともRAMは標準ではたったの256バイト(256キロバイトではない!)しか搭載されていなかったので、BASICを動かすにはメモリ増設が必要であった。しかも最初はその増設用のメモリの大きさもたった4KBでしかなかった。
Paul Allen と Bill Gatesは4KBのメインメモリのAltairで動作するようにBASIC言語をうまくスケールダウンして移植する作業に1974年12月から取りかかった。彼らは、Altairの実機を手に入れることができなかったので、Altairに搭載されているインテル製CPU8080のテクニカル・マニュアルに基づき、その当時Gatesが在籍していたハーバード大学のコンピュータ・センターにあったDEC社のミニコンPDP-10上で8080をエミュレートすることで移植作業をおこなった。作業開始から約8週間後の1975年2月には完成させた。2月下旬にはAllenがアルバカーキにあったMITS社でデモに成功した。その後、Allenは勤めていたハネウェル社をやめ、MITS社のソフトウェア部長(もっともソフトウェア部門にはAllen一人しかいなかったが)になった。
1975年7月22日には8080用BASICに関してMITS社と正式に契約をおこなった。その契約内容は、BASICのライセンス供与にともなう使用料として3,000ドルを受け取るとともに、MITSによってライセンスされるBASIC1本ごとに規定の金額(4KBメモリ用バージョン1本につき30ドル、8KBメモリ用バージョン1本につき35ドル、12KBメモリや16KBメモリなどのマシン用の拡張バージョン1本につき60ドル)を受け取るというものであった。
ここから Microsoft 社が始まった(Microsoft という社名は8080などのMicroComputer 用の Software を製作する会社ということから付けられた。もともとはMicro-softであったが、しばらくしてハイフンが取られた)。Microsoft社の初年度の売り上げは約10万ドルであった。
Altairでプログラミングを可能とするBASICはマニアたちの間に瞬く間に広まり、マイクロプロセッサーを使ったコンピュータの事実上の標準言語となった。そうした普及の背景には、Microsoft社のBASICがマニアの間で大量に「不正」コピーされたことがあったと言われている。これと似たようなことはソフトに関して数多くある。たとえば、1980年代後期におけるNECのPC9801用日本語ワープロソフト市場において、絶対的人気を誇っていた<松>というワープロソフトが<一太郎>に敗北した理由には、MS-DOSへの対応の遅れとともに、<松>のコピープロテクトが厳しくコピーしにくかったのに対して<一太郎>は簡単に「不正」コピーができたということがある。
Microsoft社のBASICの不正コピーの発端は、MITS社の商法にあったと言われている。Daniel Ichbiah,Susan L.Knepper著(椋田
直子訳,1992)『マイクロソフト --- ソフトウェア帝国誕生の奇跡』アスキー出版局,p.64やJames Wallace,Jim Erickson(SE編集部訳,1992)『ビル・ゲイツ
---- 巨大ソフトウェア帝国を築いた男』翔泳社,p.129によれば、MITS社の広告に応じてお金を支払ったにも関わらずBASICをなかなか入手できなずにいらだっていたユーザーが、まだできていないはずのBASICが1975年6月にパロアルトで開催されたMITS社のデモンストレーション会場で動いているのを見て激怒したことが「不正」コピーのきっかけであった。(Altair用のBASICの正式発売はこのデモンストレーションから約3ヶ月後の1975年9月だったので、この時のプログラムはまだバグ取り作業中のプログラムであったが、ともかくも一応は動作していた。そのため、Homebrew
Computer Clubのある会員がパンチテープ読み取り機から読み取りを終わって下に落ちていたBASICプログラムのテープをこっそり拾い、それをコピーして配布したことから「不正」コピーが始まった、ということである。
「不正」コピーの蔓延に憤激したBill Gatesは、Altairのユーザー向けの会報誌『コンピュータ・ノート』にAn
Open Letter to Hobbyists[「ホビイストたちへの公開状」1976年2月3日付け]というタイトルの文章を掲載し、その中で「BASICを正規に購入したのはAltair購入者の約1割にも満たない"(less
than 10% of all Altair owners have bought BASIC")」と指摘した上で、「不正コピーは、ソフトウェア開発会社の利益を損ない、それにより会社の存続・発展が危うくなる。そのためソフトウェアの新規開発が阻害され、結果としてソフトウェアの全体的発展ができなくなる。」という趣旨のもとに"most
of you steal your software"(「ほとんどのホビイストたちはソフトウェアを盗んでいる」)というように不正コピーを強く批判した。この文章は、Homebrew
Computer Clubの会誌"Dr. Dobb's Journal"などをはじめとして、当時のマイコン業界関係の主要な出版物にも転載された。
多くのホビイストたちをソフトウェア「泥棒」呼ばわりしたGatesのこの文章に対しては、「MITS社はBASIC付きのメモリーボードを150ドルで売っているのに、BASIC単体の販売価格を500ドルに設定し、BASICだけを買おうとするユーザーを実質上締め出している」MITS社の不当な抱き合わせ販売に対する不満や、「BASIC言語それ自体は、アメリカのダートマス(Dartmouth
College)大学のケメニイ(John.G.Kemeny,1926-1992)とカーツ(Thomas
E.Kurtz,1928-)が初心者用のプログラミング言語として1964年に共同開発したものであり、Public Domain Softwareとして無償公開されているものである。GatesとAllenはそれをインテル製CPU8080などのマイクロコンピュータ上で動くように移植作業をしただけである。」ということなどを根拠として、ホビイストたちが激しく反論した。(なおGatesとAllenがBASICを8080上に移植する際に利用したコンピュータはハーバード大学のPDP-10というコンピュータであったが、そのコンピュータの利用料金は国防省先端技術研究計画局が提供したものである。それゆえ、GatesとAllenがBASICの移植に利用したコンピュータの利用料金はアメリカ国民の税金で支払われたことになる。
James Wallace,Jim Erickson(SE編集部訳,1992)『ビル・ゲイツ ---- 巨大ソフトウェア帝国を築いた男』翔泳社,p.133)
さらに1975年後半には、フロッピーディスク版のBASIC(Disk BASIC)を開発している。最初は紙テープに記録されて紙テープでプログラムが読み込まれていたのが、フロッピーディスクになったことによってより大量のデータをより簡単に読み書きできるようになった。