例えば、「汝、人を殺すなかれ」という道徳的価値判断の実際の場面における適用妥当性が、「人とは何か?」「殺すとは何か?」という事実的判断に依存していることは事実である。「脳死」判定された人の生命維持装置を外して心停止状態にさせることは、現代日本の社会では「人を殺す」行為には該当しないが、「臓器の移植に関する法律」(いわゆる臓器移植法)が1997年に成立する以前の段階では事実として脳死状態にある人であってもその人の生命維持装置を外す行為は殺人という行為として認定されるべきものであった。もちろん現代でも脳死を「人の死」として認めない道徳的立場にたつ人々は、「脳死」判定された人の生命維持装置を外して心停止状態にさせることを道徳的には殺人として避難するであろう。
またSF小説でよく取り上げられるトピックであるが、高度に発達した人工知能を持ち、コミュニケーション行為や感情表現などの外見的行動において人間と区別することができないロボットを「破壊」することは「殺人」行為に該当しないのかどうかという道徳的価値判断は「人とは何か?」ということの判断に依拠している。この「人とは何か?」という判断は、道徳的価値判断であるとともに、事実的判断でもある。
科学論という名称で本稿で呼んでいる学問分野においても、こうした事実的判断と道徳的価値判断の、「論理」的ではないにせよ、「現実」的連関は存在する。科学論においてSeinの問題(事実的判断の問題)とSollenの問題(価値判断の問題)という視点から問題になるたのは、「発見」行為と「正当化」行為の区別と連関に関わる論争においてである。
ポパー的立場によれば、「発見」行為と「正当化」行為はSeinの問題(事実的判断の問題)としてはともかく、Sollenの問題(価値判断の問題)としては明確に区別すべき二つの行為である。すなわち、ある科学的仮説が「発見」されるプロセスそれ自体は科学的であっても非科学的であっても構わない。コペルニクスが太陽信仰から地動説を思いついたとしても、ニュートンがリンゴが木から落下することことから万有引力を思いついたとしても、ケクレが夢からベンゼン分子の環状的構造を思いついたとしても、そうしたこと自体は何ら心理的に不思議なことでも道徳的に避難すべき事柄でもない[注1]。
ポパー的立場からは、科学的仮説が思いつかれるプロセスそれ自体は、非科学的であっても「何でも構わない(anythig goes)」のである。発見の文脈に関して、ポパー派はファイヤアーベントの議論に反対するどころか、大いに賛成する。ポパー派からすればファイヤアーベントの議論は発見の文脈の対象領域においては妥当であるが、正当化の文脈においては非妥当なのである。ポパー的立場においては科学論の対象領域は科学的仮説の発見のプロセスではない。それは科学史学や科学社会学の対象領域である。
ポパー的立場によれば、科学論の本来的対象領域は、そうした科学的仮説の「発見」の後になされる行為領域、すなわち、科学的仮説が科学的なのかどうかという判断や、正しいのか誤っているのかという判断という科学的仮説の「正当化」の領域に関わるものである。科学と非-科学の区別(境界設定)が問題となるのは、仮説の「発見」領域においてではなく、「正当化」領域にある。仮説を科学的に「正当化」するのか、非-科学的に「正当化」するのかが問題なのである。
ポパーは、仮説の帰納法的「正当化」はヒュームが論じたように論理的に不可能であると考えている。そしてポパーは自らの発見として、反証可能性の有無による仮説の「正当化」ということをSollenの問題として提起している。
こうしたポパー的問題意識を正当なものと認めるかどうかで、ポパーとクーンやファイヤアーベントらと立場が分かれることになる。クーン以後の科学論における有力な一方の立場は、仮説に関するこうした「発見」と「正当化」を区別しないというものである。ただし論者によってアプローチは様々であり、SeinとSollenの区別そのものが社会的には「無意味」だとする立場から批判する論者もいれば、反証可能性の有無による仮説の「正当化」がSeinの問題として誤っているとする論者もいる。[注2]
[注1]コペルニクスが実際に太陽信仰から地動説を思いついたのかどうか、ニュートンが実際にリンゴが木から落下することことから万有引力を思いついたのかどうか、ケクレが実際に夢からベンゼン分子の環状的構造を思いついたのかどうか、ということそれ自体は科学史的には重要な問題である。しかし科学論的にはそうしたことはどちらでも構わないことだ、というのがポパー的主張である。
[注2]反証可能性が「論理」的可能性ではなく、「現実」的可能性であるとすれば、Seinの問題としての反証可能性は時代によって変化することになる。
原子論の反証可能性は古代においては抽象的な「論理」的可能性に止まり、「現実」的可能性ではなかった。したがって古代における原子論はその時代において「論理」的には科学的な議論であったが、「現実」的には科学的議論と哲学的議論との明確な分離がその時代においてはできなかった。
ある特定の科学者が現実的に生きている時間は有限であるため、その科学者によって打ち出された仮説の反証可能性が「論理」的には言えても、その科学者が現に生きている時間内においては「現実」的には反証可能ではないものも数多くある。
したがってポパーの反証可能性が「現実」的反証可能性ではなく「論理」的可能性だとすると、ポパー的な反証可能性という「論理」的基準によってはある特定時点で科学的議論と非ー科学的議論を区別することが「現実」の問題としてはあまり有効ではない。
例えば「グルーは生成から100億年間はgreenであるが、生成後100億年で自然にblueに変化する」といったグルー仮説は「論理」的には反証可能であるが、「現実」的には反証可能ではない。そのためポパーは科学性の規定を「現実」的なものとするために、新しい科学的仮説は古い科学的仮説よりも「経験」内容が多くなければならないといった二次的規定を必要としたのである。
科学を対象とする学問的研究という意味における「広義の科学論」は、下記のように科学を科学的視点から取り扱う「狭義の科学論」以外に、科学を歴史的視点から取り扱う「科学史」、科学を社会学的視点から取り扱う「科学社会学」、科学と技術と社会の相互連関という視点から取り扱う「STS」、科学を思想史的視点から取り扱う「科学思想史」、科学を哲学的視点から取り扱う「科学哲学」などから構成されている。
「理論」的 研究 |
「経験」的 研究 |
|
「科学」的 研究 |
狭義の科学論 | 科学史、科学社会学 STS、科学思想史 |
「哲学」的 研究 |
科学哲学 哲学的科学方法論 |
(科学哲学の歴史) (哲学的科学方法論の歴史) |
狭義の科学論については、別稿も参照されたい。
両規定を区別すべき経験的根拠は、科学史によって与えられている。科学が歴史を持つことそれ自体が、科学性と真偽性の規定の区別を示しているのである。
両規定を区別すべきことは、次のような議論によっても示すことができよう。
科学性の規定と真偽性の規定が同一であれば、「科学的知識ならば真である」とともに、「真ならば科学的知識である」ことになる。それゆえ「偽ならば非-科学的知識である」ことになる。(ただし「非-科学的知識ならば偽である」とは単純には言えない。というのも知識一般が対象的認識活動の産物であるわけではないので、すべての知識を真か偽かに区別することは有用ではないからである。例えばユークリッド幾何学の前提的公理である「平行線は交わらない」という命題を真偽の対象とすることは不適切である。)
「偽ならば非-科学的知識である」とすると、科学の歴史的対象である様々な知識的主張(Knowledge claim)が非-科学的であることになってしまう。例えば、「潮汐現象の存在は地球が運動していることの経験的証拠である」というガリレオの知識的主張や、「惑星の公転運動は導円と周転円の組合せで説明できる」という周転円説的天動説という知識的主張は、非-科学的であることになってしまう。
主張が「真か偽か」ということと、その主張が「科学的か非-科学的か」ということの二つの事柄が異なる規定であるとすることによって、前述のガリレオの知識的主張や周転円説的天動説という知識的主張は、偽ではあるが、歴史的には科学的であった、とすることができる。
このことは、活動に関する科学的と非-科学的との区別が、それらの活動の産物である知識的主張に関する科学的と非-科学的との区別と連関していることを示している。
佐野正博(1992)「科学的認識と相対主義」『認識・知識・意識』創風社,pp.99-142の一部加筆訂正版
- 佐野正博(2004)「物理学を事例的素材とした科学論の授業展開の可能性」