日本科学史学会シンポジウム>歴史教育における科学史・技術史の教育的意義
山田俊弘「どのように高校の歴史用語を選ぶのか:科学史のヒストリオグラフィーの問題」

東京大学教育学研究科研究員 山田俊弘
 
20世紀の初頭、科学史家のサートンが「新ヒューマニズム」を唱えて科学の歴史の研究と普及の活動を開始したとき、科学史は「科学」と「歴史」の二重のディシプリンを持つとするとともに、それを教育の問題として捉えていた(Sarton 1921)。彼は科学史をカリキュラムに導入することによる教育の制度(システム)と教育的な価値の変革を訴えた。今日、科学史は改めてその二重の性格を考慮することから、歴史教育と科学教育にどのような役割を果たせるのか。特に今回の場合、高校の歴史教育で科学史を扱うことの意義と問題点は何なのか、そこから翻って従来主張されてきた科学教育での役割も見直せないか考えたい。
 佐野報告にあるように、高大連携歴史教育研究会は、高校での歴史教育で使われる用語を全面的に点検し、今日的な標準を教科書記述や入試問題作成の際のガイドラインとして提示しようとしている。歴史の方法論や基本概念となる用語を教育的に吟味し直し、単に絞り込むだけでなく、ジェンダーや産物、環境史、自然災害などに関する用語を採用するという方針は理解できるし有意義だろう。しかしその目的を、教科書をスリムにすることを通して「歴史的思考力の育成を可能にする」としている点は、本末転倒のような気がしてならない。
 というのは、学校の歴史は暗記物だと人々に思わせてしまうのは、〈歴史を語る〉ということの意味を考えさせることができていない点に問題があるので、用語の過多を難じて一律に「精選」に走ることは、かえってこれだけは最低限「暗記」せよといった強制を暗示することになりかねない。科学史記述との関係でいえば、たとえば「科学革命」は「世界史」や、「倫理」でも扱われる重要な項目である。その内実は、コペルニクスから、ケプラー、ガリレオを経てニュートンに至る近代科学の形成過程と理解すれば、このうちガリレオを削る選択はしにくい。もちろん、「科学革命」の定義をめぐって10人の科学史家が15通りの答えを返すという状況があり(プリンチペ 2014)、「17(・・)世紀(・・)科学革命」と解してコペルニクスの名をカットすることは考えうるとしても、「科学革命」概念の理解という観点からはむしろ有害というしかない。科学史家がその道の「歴史」の専門家として関与する余地は十分あろう。
 科学史が、歴史研究の一分野として制度化される一方で、科学者が後継者育成の場で語るストーリーがある。これを金森修は「嚮導科学史」と呼んで科学思想史と対比させたが、両者合わせて広い意味での科学教育論への連接を示唆したとも解釈できる(山田 2017)。科学教育の場では「ケプラーの法則」のようなエポニミー現象が人名の関わる用語として登場する。こうした用語は、科学的思考力の育成には関わりないという立場もあるが、科学の文化的現象には違いない。サートンの顰に倣っていえば、自身の二重の出自を自覚することで、科学史は歴史教育と科学教育の双方に関係しており、また関与することで新しい文化を生み出すべきだろう。
 
【文献】
プリンチペ, L., 科学革命 (丸善, 2014); Sarton, G., Isis, 4-2, 1921, 225-249; 山田俊弘, 東京大学大学院教育学研究科基礎教育学研究室紀要, 43, 2017, 59-61.
 

How to Select Historical Terms for High School Students: Historiographical Issues in the History of Science
Research Fellow, University of Tokyo Toshihiro YAMADA
 
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